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海外駐在員時代の思い出等

Archive for the ‘日本’ Category

イランで道を尋ねると「ちゃらんぽらん」

Posted by japansmallpotatoes : 11月 7, 2009

中国語を学んでいる時に、白帝社出版、沈国威著の「中級中国語 資格にチャレンジ」と言う教科書を使っていた事がありました。大変優れた内容の教科書で、中国語検定試験の出題内容に沿った例題も豊富で、しかも沈先生のホームページを覗くと、その回答が見つかると言う親切さでした。 

その第9課に、”問路(道を尋ねる)”と言うテキストが有ります。内容は世界各地を旅行していて、道を尋ねると言う些細な事で、その訪問国の人情味や民族性が判るというものです。 ”ドイツでは道を尋ねられた人が、懐から紙とペンを取り出して、さらさらと地図を書いて道を教えてくれた。フランスでは、英語で尋ねたにもかかわらず、麗しい響きのフランス語で、ペラペラペラと答えられた。イギリスでは、老紳士が手持ちの傘で曲がり角を指し示して教えてくれ、その曲がり角まで行って後ろを振り返ると、老紳士は元の場所に立って、そこだよと言う風に頭を頷かせた。日本では、英語の話せない中年の人が、バス停まで案内してくれ、バス停でバスを待っていた他の人に、この遠来の人がちゃんとバスに乗って、降りれるように頼んでくれた。”と言う内容です。

作者の観察力と例えのうまさに感心すると共に、1970年代後半イランに駐在当時の事を思い出しました。当時日本人の間では、イラン人に道を聞く際には必ず2-3人に同じ質問をして、多数決で方角を決める様にと言われていました。イラン人は例え自分が知らない場所でも、自信満々に違う方向を教えるので、気を付けなければならないと言う事です。小生の経験でも、決して悪意を持っている訳では有りませんが、外国人に対して何かを知らないと言う事に、自尊心が許さぬのか。或いは彼ら独特の価値観で、知らないのは恥だが、間違うのは恥ずかしくないと言う気持ちが伝わりました。

中国語でという漢字を使った熟語にろくな意味は有りません。胡搞(いたずらをする)胡来(でたらめな方法でやる)胡言(たわごと)等等。歴史の五胡十六国の胡が、必ずしもイラン系とは限らないと思いますが、イラン系民族も胡の中に混じっていたのは間違い無い筈です。とすると、「(古代の)イラン人が言う」というのは”胡説”となりますが、現代中国語での意味は「いい加減な事を言う」という意味になります。もしかして、古代の中国人もイラン人に道を尋ねて、反対方向を教えられ、西域の砂漠で命を落としそうになったのかも知れません。

もしかして、古代の日本人もイラン人に何か騙されたのかも知れません。イランのペルシャ語のCHARAND-O-PORAND“は「いい加減な事を言う」意味と日本人の先輩に教わった事があります。それって日本語の「ちゃらんぽらん」はペルシャ語と同じと言う事ではないですか。

誤解なき様に言っておきますが、小生はイラン人大好き人間ですので、面白、可笑しく伝えても、彼らを馬鹿にしている訳では有りません。

 

トラックバックさせて戴きました。 2009/11/28

襦袢がアラビア語!?

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炬燵(こたつ)はどこから来た?

Posted by japansmallpotatoes : 11月 7, 2009

کرسی

کرسی1(コルシ1)

1980年頃の冬にテヘランの取引先のショラカ社長の自宅に呼ばれて驚いたことがあります。ペルシャじゅうたんを敷き詰めた小ぶりの部屋に何とこたつが有るでは無いですか。ペルシャ語で”コルシ”と呼ぶ由ですが、社長は日本の会社と色々取引が有るので、日本から輸入したのかと聞くと、イラン固有の物との返事でした。小生が全く日本と同じだと驚いていると、社長もまさか同じものが日本に有るとは知らず、しかも呼び方が”コタツ”と聞くと、”コルシ、コタツ、コルシ、コタツ….”と繰り返して、その昔にイランから日本に伝わった違いないと、一人納得して喜んでおりました。

改めて調べると、日本では室町時代頃にこたつの使用が始まった様で、当時までに色々の物が中国から伝わっていますが、炬燵という漢字は日本字という事ですので、こたつの場合は中国伝来では無い様です。ペルシャ語サイトで見つけたイランのコルシの写真を貼り付けます。果物を上に載せて団欒する姿は、日本のこたつの有る風景とそっくりです。

کرسی2 
 

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トルコ航空救援機来る

Posted by japansmallpotatoes : 10月 17, 2009

Cumhuriyet

トルコと言う国に対して感謝の気持ちを持っております。 ブログを始めた理由の一つは、この感謝の気持ちを、みんなの前で明らかにしたかったからです。NHKのプロジェクトXでエピソードが紹介されたので、ご存知の方も多いかと思いますが、トルコ航空の救援機が多くの日本人を助け出してくれたからです。私も助け出された中の一人です。

1985年3月には妻及び2歳の長男と共にテヘランに駐在しておりました。当時、イランはイラクと交戦中で、毎晩イラクから爆撃機がテヘラン上空まで侵入し、爆弾を落としておりました。 幸いにもテヘランは国境からは、500キロ程あり、往復の航続距離の関係上大量の爆弾を搭載できぬ模様で、1機につき1-2発落とすと引き上げると言う形で、直撃を受けるのは交通事故に会う確率程度と少し余裕を持っておりました。それでも、夜寝るときは、宿舎の食堂のテーブルの下に布団を敷いて、子供を真ん中に寝かせて、気休めにしか過ぎませんが、最低限の安全確保を目指していました。

3月17日の夜、イラクのサダム・フセイン大統領は、48時間の猶予の後、イラン上空に飛来する民間機を撃墜するという、イランに対して無差別攻撃を開始する旨の声明を発表しました。これを受けて、イランに飛来していた全ての民間航空会社は期限内の運行停止を決定し、同時に各航空会社は自国民のイランからの引き上げの為の避難活動を開始しました。ところが、親方日の丸のJALは、乗務員の安全確保が出来ないと言う理由で、助けに来てくれませんでした。当時ドバイまで来てイラク側からの安全確認を得る為に、待機しているとのニュースは流れて来ていましたが、真偽は確認していません。結果として、国外避難を求める外国人の中で日本人のみが、イランに取り残されるという情けない事態が発生しました。

3月18日の朝から、在住日本人は行き先はどこでも良いからと18-19日テヘラン発の便に席が取れぬかと、航空会社のチケットカウンターに押しかけました。私もAFとLHの事務所を訪ねましたが、当然ながら自国民優先と言う方針で、日本人にチケットは売ってくれませんでした。(イランでは3月20日が新年ですので、正月休みを海外で過ごす予定で、相当数の駐在員が事前にヨーロッパ行きのチケットを入手しており、彼らは予定通り出国できました。)陸路テヘランからトルコのエルズルム経由でイスタンブールに至る、いわゆるパンアジアハイウェーと言う避難ルートが存在するのは知っていましたが、実は1980年にそのルートを通じてイランを脱出した事が有りますが、その際にひどい事件に遭遇した経験を持っています。いずれ稿を改めて詳しく書きますが、とても妻子を連れて長距離バスに乗る危険を犯す勇気を持てませんでした。航空空会社から失意のまま宿舎に戻り、仕方が無いので翌日は朝から車を駆ってカスピ海の方面に避難し、テヘランで激しい爆撃を受ける危険を避け様という腹を決めました。ところが夜の8時ごろになって、大使館の領事から電話が有り、トルコ航空が救援機の空席に日本人を乗せてくれる事になったので、翌日はトルコ航空の事務所へ行く様に薦められました。

3月19日の早朝、トルコ航空の事務所に到着すると、既に日本人駐在員の長蛇の列が廊下、階段と繋がっていました。 しかし数時間の待ち時間の間に意外とスムースに発券作業が進み、イスタンブール行きのチケット3枚を無事購入する事ができました。早速宿舎に飛び返り、荷造りを済ませていた家族を連れて直ちに飛行場に向かいました。飛行場は複数の救援機の離陸待ちで、混雑の極みでした。搭乗ラウンジでは、混雑緩和の為、一列縦隊に並ばされましたが、右側がモスクワ行きのアエロフロート便で当時のソビエト人の列、左側がイスタンブール行きの日本人多数の列でした。3月のモスクワは未だ寒さが厳しいのか、ロシア人達は毛皮で着膨れている事も有るかも知れぬが、200-300人が集団で平行して並ぶと、身長差20-30cm体重差40-50kgの体格の違いが歴然と見え圧倒される存在感を意識したものです。態度も日本人の列は黙って行儀良く並んでいるだけですが、ロシア人の列は、みな大声で何かをしゃべりまくりていました。その時何故か、北方四島を取り戻すのは、簡単じゃ無いなと言う考えが頭を過ぎり、思わず「ロシア人め」と言うニュアンスで宿舎の大家が口にしている「シュラビ(ペルシャ語でスラブ人)」と言う言葉が出てしまいました。隣に居たロシア人の妙に明るい奥さんが聞きとがめて、「バーレ(ペルシャ語でそうよ)」と小さな声の笑顔で答えたのを記憶しています。

その数日の疲れで、機内では眠り込んでいましたので、ほとんど出来事を覚えていませんが、テヘラン空港を離陸直後とイラン国境を超えた際に機長の「ようこそトルコへ」という機内放送を受け、搭乗客全員が拍手したのが印象に残っています。その日トルコは2機の救援機で、通告期限ぎりぎりの午後8時直前に、都合215名の日本人を救出してくれました。救援機派遣を決めたトルコの当時のオザル首相、命がけの救援活動を実行してくれた乗員、トルコ国民全員に1000回でも「タシャキュール(トルコ語でありがとう)」を伝えたいと思います。

下の記事は、3月20日発行のトルコの新聞「Cumhuriyet」の切抜きです。19日夜イスタンブール到着時に空港で取材を受け、テヘランの状況を説明した妻の発言が引用されています。

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