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海外駐在員時代の思い出等

Archive for the ‘イラン’ Category

鷲の翼に乗ったは良いが(日本人襲撃される)

Posted by japansmallpotatoes : 1月 11, 2010

 ケン・フォレットの「鷲の翼に乗って」はイランに囚われたアメリカ人を救出して、陸路トルコ経由で脱出すると言う、作り話の様な実話を基に描かれた小説です。

私もイラン・イラク戦争の開戦直後にテヘランから陸路トルコへ脱出した事があります。 イラン・イラク戦争は1980年9月20日のイラク爆撃機のテヘラン空港に対する爆撃から始まりました。 緒戦に飛行場が使用不能に陥った為、在留邦人は戦禍を避ける為、飛行機で逃げ出す事もままならず、状況を見極めるべく、暫く戦争の成り行きを様子見の状況が続きました。

一ヶ月経っても飛行場が再開されず、戦争も長期化の様相で、日系の各社は駐在家族及び不要不急の人間の帰国を決めました。その一ヶ月間はイラクのピンポイント空爆を避ける為、夜間の灯火管制、ひいては強制停電が実施されておりました。秋の夕暮れは早く、電気も無くカーテンで締め切った部屋にローソクの仄かの明かりのみ況では、テレビ、音楽、読書等の時間つぶしの方法が何も無く困り果てました。唯一の楽しみがイラク爆撃機がテヘラン上空に侵入した際の、イラン地上軍の迎撃射撃の曳航弾を、花火を見る様な気持ちで、毎晩眺めると言う悲惨なものでした。

大手の企業は各社色々脱出対策を練っておりましたが、一人駐在の我が身では余りなすすべも無く、貧乏旅行時代に経験の有る、テヘランからの長距離国際バスで、トルコに脱出しようかと考えておりました。ところが大使館の骨折りで、大手商社のチャーターバスの空席に一人駐在員を便乗させて貰う事となり、ソニーのH氏、ホンダのS氏等と一緒に、10月22日テヘラン発の丸紅のバスに乗せて貰う事になりました。丸紅のメンバーは殆どが駐在員夫人で、男性は若手の駐在員2名程度がお世話に付いて行くという雰囲気で、我々3名の男が混じっていた方が、少しは心強いかなと言う感じでした。実際、国境での荷物の揚げ降ろしの力仕事を手伝ったり、ペルシャ語しか話せぬ運転手の横で、ホンダのS氏が通訳を務めたりと、少しはお役に立つ事ができたかなと思っています。

トルコとの国境に到着したのは夕刻でしたが、イスタンブールの代理店への手土産に、免税店でスコッチウイスキーを買ったりして、うっとうしいテヘランからの脱出と言う旅行気分に浸っていました。国境には日系各社のチャーターバスが団子状になっており、見知らぬ同士ですが、順番にお先ですと手を振って出発して行きました。我々が走り出して、二時間程経った頃、道路脇に一台のバスが止まり、路上で誰かが手を振っていました。このルートには山賊が出現する恐れが有るとの話を聞き込んでいたので、我々三人は大声で運転手に、止まるな走れ走れと怒鳴っておりました。道路上で手を振っている人間を交わして、追い越して走った際に、「助けてくれー」と言う日本語が耳に飛び込んで来ました。日本人が助けを求めていると判り、大急ぎでバスを止めて、バックさせて路肩に止まっているバスの所まで戻りました。

降りて様子を尋ねると、先ほど国境で手を振って先行した、東亜建設工業チャーターのバスで、途中で銃撃され二人が負傷したとの事でした。彼らのバスの運転手は、銃撃でタイヤがパンクしているにも拘わらず、十五分ほど走り続け、現場から逃げ切ったとの事です。タイヤが火を噴きそうになったので、路肩に止め、後続車が通りかかるのを待っていたとの事です。と言う事は、一歩間違うと、我々のバスが、銃撃されていたとぞっとしたものでした。負傷者2名と引率者を最寄の病院まで乗せていって欲しいとの事で、その晩我々が泊まる予定の都市のエルズルムの病院まで運ぶ事になりました。

負傷者の野地さんが、私の隣の空席に座ったので、状況を聞いたが、眠っていたので殆ど何も判らないとの事でした。寝ているうちに急に足に衝撃があったので、何か荷物が網棚から落ちて来たのかと思ったが、見たら足の甲に銃弾の穴が空いているので驚いたとの事でした。ウイスキーを持っているので、西部劇で見る様に、消毒の為に傷口にかけましょうかと尋ねると、傷自体は大した事は無いが、痛み止めに口に入れて欲しいと言われたので、一本差し上げました。イランは禁酒国ですので、お酒に飢えておられたのかも知れません。ともかく無事病院まで届けて、ホテルに到着したのは、真夜中になっていました。翌朝、東亜建設のバスも同じホテルの駐車場に止まっていましたが、バスの側面タイヤの高さに1m間隔ぐらいにポツポツと銃弾貫通の跡が残っていました。

当時、PKK(クルド独立運動の組織)のトルコに対するテロ行為が激しく、ホテルのスタッフから聞いた話では、直ちにトルコ空軍がヘリコプターを出して、現場付近の掃討を始めたとの事でした。当初丸紅のバスは、アンカラ、イスタンブールまで行く予定でしたが、ご婦人方がもうこれ以上バスの旅はこりごりとの事で、エルズルムで飛行機に乗り継ぎ、丸紅社の鷲の翼は解散する事になりました。我々は3人は、トルコ側の国境までサポートに来ていた、丸紅アンカラ支店の乗用車にアンカラまで乗せて貰いました。丸紅社には大変お世話になり、今も感謝しております。

当時のサンケイ新聞の記事を添付致します。(拡大可能ですので、興味の有る方は記事をお読み下さい。)この事件は文芸春秋でも読み物になった筈ですが、関連の号が不明で探しきれていません。

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ハッシシスタン、あの人は今?

Posted by japansmallpotatoes : 11月 14, 2009

若い頃に、バスを乗り継ぎ2週間程度で、アフガニスタンのカブールからドイツのミュンヘンまで走ると言う、リュックひとつの貧乏特急旅行をした事が有ります。当時、若者のそういう貧乏旅行がブームで、ブームに乗せられた口です。日本からカブールまでは、飛行機や列車の乗り継ぎで到着しました。丁度ミュンヘンオリンピックの時で、学生時代の友人が、ミュンヘンでバイトをしながら暮らしていましたので、とりあえず目的地をミュンヘンとしました。当時英語も余りしゃべれず、バス乗り場を探すのに困る様な状況でした。たまたまホテルで知り合った、新学期が始まるので、急いでドイツに戻るドイツ人若者3人のグループに加えて貰い、同一行動をしていました。

長距離バス旅行の初日で困ったのは、間食や、昼食の準備を全くしてなかった事です。列車の場合は、車内販売もあったりして、余り不自由しませんが、バスは食べ物の現地調達が出来ないのです。運転手も昼食を取るので、峠の茶屋みたいな店で、豆のスープと紙パン(発酵させないパン)みたいな軽食は有りましたが、バスの乗客は誰も降りて来ません。ドイツ人達も、搭乗前にチーズの塊とパンを持ち込んでおり、乗客は皆食料持参で乗り込んでいるのでした。茶屋の方は、飛び込みの客に対しては、他に選択の余地が無いことを知っているので、法外なぶったくり商法を行っておりました。値引き交渉してもらちが明かず、腹が立ったので、昼飯抜きで空き腹を抱えていました。ドイツ人達は、食料を分けて上げると言ってくれましたが、申し訳無いので我慢の半日でした。

今でも余り変わらないのではと想像しますが、その当時のほとんどのアフガン人男性は大麻の吸引をしており、街中でもタバコ代わりに、皆がハシシを吸っておりました。最近、日本の芸能人や大学生の若者の間で、大麻、薬物汚染が騒がれていますが、その頃のヨーロッパの若者達も、アフガニスタンへハッシシを楽しむ為に、旅行に来ている状況でした。ヨーロッパ人の間では、アフガニスタンは冗談にハッシシスタンと呼ばれていました。首都カブールから西方のヘラートまでの、長距離国内バスの車内でもで、アフガン人はお互いにハシシを勧めあって、婦人、子供以外は皆軽い酩酊状態でした。

ところが、ヘラートで乗り換えた、イランのマシャッド行きの、国際バスの車内の様子は大違いで、誰もハシシは吸っていないので驚きました。実は隣国のイランは当時も、ハッシシの吸引は禁止されており、アフガニスタンからの持込に対して、厳罰をもって対処しておりました。それで、アフガン人もイランに入る時は、ハッシシを持込まない様に気を使っている訳です。(後日イラン国内もそれなりに大麻汚染はあると知りましたが。)イランとの国境でバスを降りて、税関検査の際でした、小生が日本人と知ると、税関吏がいかにも自慢げに、さっき別の日本人と会わなかったと聞かれました。そう言えば建物の外で、遠くに東洋人ぽい人間が他にもいるなと思って見ていました。税関吏曰く、その日本人は、ヨーロッパ人数人と一緒に、乗用車で入国する際に、ボディーの下にハシシを隠して持込もうとしたそうです。棒の先に鏡を取り付けた器具での、車両の底面チェックで、ハッシシが発見され逮捕されたとの事です。税関吏「可愛そうにイランで終身刑ですよ」と言いながら、小生のリュックを隅から隅まで検査しておりました。

その後ずっとその話を100%信じておりましたが、年を取り商売でも色々騙された人生の経験を積むに連れて、あれは税関吏のテクニックだったのではと思うようになりました。つまり、密輸入国者の動揺を誘い、露見させると言うテクニック。・・・・ でも本当だったら、あの人は今頃どうしているかなー? 

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イランで道を尋ねると「ちゃらんぽらん」

Posted by japansmallpotatoes : 11月 7, 2009

中国語を学んでいる時に、白帝社出版、沈国威著の「中級中国語 資格にチャレンジ」と言う教科書を使っていた事がありました。大変優れた内容の教科書で、中国語検定試験の出題内容に沿った例題も豊富で、しかも沈先生のホームページを覗くと、その回答が見つかると言う親切さでした。 

その第9課に、”問路(道を尋ねる)”と言うテキストが有ります。内容は世界各地を旅行していて、道を尋ねると言う些細な事で、その訪問国の人情味や民族性が判るというものです。 ”ドイツでは道を尋ねられた人が、懐から紙とペンを取り出して、さらさらと地図を書いて道を教えてくれた。フランスでは、英語で尋ねたにもかかわらず、麗しい響きのフランス語で、ペラペラペラと答えられた。イギリスでは、老紳士が手持ちの傘で曲がり角を指し示して教えてくれ、その曲がり角まで行って後ろを振り返ると、老紳士は元の場所に立って、そこだよと言う風に頭を頷かせた。日本では、英語の話せない中年の人が、バス停まで案内してくれ、バス停でバスを待っていた他の人に、この遠来の人がちゃんとバスに乗って、降りれるように頼んでくれた。”と言う内容です。

作者の観察力と例えのうまさに感心すると共に、1970年代後半イランに駐在当時の事を思い出しました。当時日本人の間では、イラン人に道を聞く際には必ず2-3人に同じ質問をして、多数決で方角を決める様にと言われていました。イラン人は例え自分が知らない場所でも、自信満々に違う方向を教えるので、気を付けなければならないと言う事です。小生の経験でも、決して悪意を持っている訳では有りませんが、外国人に対して何かを知らないと言う事に、自尊心が許さぬのか。或いは彼ら独特の価値観で、知らないのは恥だが、間違うのは恥ずかしくないと言う気持ちが伝わりました。

中国語でという漢字を使った熟語にろくな意味は有りません。胡搞(いたずらをする)胡来(でたらめな方法でやる)胡言(たわごと)等等。歴史の五胡十六国の胡が、必ずしもイラン系とは限らないと思いますが、イラン系民族も胡の中に混じっていたのは間違い無い筈です。とすると、「(古代の)イラン人が言う」というのは”胡説”となりますが、現代中国語での意味は「いい加減な事を言う」という意味になります。もしかして、古代の中国人もイラン人に道を尋ねて、反対方向を教えられ、西域の砂漠で命を落としそうになったのかも知れません。

もしかして、古代の日本人もイラン人に何か騙されたのかも知れません。イランのペルシャ語のCHARAND-O-PORAND“は「いい加減な事を言う」意味と日本人の先輩に教わった事があります。それって日本語の「ちゃらんぽらん」はペルシャ語と同じと言う事ではないですか。

誤解なき様に言っておきますが、小生はイラン人大好き人間ですので、面白、可笑しく伝えても、彼らを馬鹿にしている訳では有りません。

 

トラックバックさせて戴きました。 2009/11/28

襦袢がアラビア語!?

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炬燵(こたつ)はどこから来た?

Posted by japansmallpotatoes : 11月 7, 2009

کرسی

کرسی1(コルシ1)

1980年頃の冬にテヘランの取引先のショラカ社長の自宅に呼ばれて驚いたことがあります。ペルシャじゅうたんを敷き詰めた小ぶりの部屋に何とこたつが有るでは無いですか。ペルシャ語で”コルシ”と呼ぶ由ですが、社長は日本の会社と色々取引が有るので、日本から輸入したのかと聞くと、イラン固有の物との返事でした。小生が全く日本と同じだと驚いていると、社長もまさか同じものが日本に有るとは知らず、しかも呼び方が”コタツ”と聞くと、”コルシ、コタツ、コルシ、コタツ….”と繰り返して、その昔にイランから日本に伝わった違いないと、一人納得して喜んでおりました。

改めて調べると、日本では室町時代頃にこたつの使用が始まった様で、当時までに色々の物が中国から伝わっていますが、炬燵という漢字は日本字という事ですので、こたつの場合は中国伝来では無い様です。ペルシャ語サイトで見つけたイランのコルシの写真を貼り付けます。果物を上に載せて団欒する姿は、日本のこたつの有る風景とそっくりです。

کرسی2 
 

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トルコ、アルメニア国交樹立協定

Posted by japansmallpotatoes : 10月 17, 2009

アルメニアトルコとアルメニアが国交樹立協定に署名したとの新聞報道を読み喜んでいます。アルメニアには行った事は有りませんが、テヘラン駐在時代の宿舎の大家がアルメニア人で、大変お世話になりました。仕事の上でも、イラン、トルコ、レバノン、フランスのアルメニア系のお客と、色々と縁が有りました。

日本では、アルメニア、アルメニア人については、ほとんど知られていませんが、旧約聖書創世記の大洪水の後、ノアの方舟が流れ着いたのが、アルメニアのアララット山(アルメニア、トルコ、イランの国境付近にある5000メートル級の、富士山の様な優美なコニーデ型の山です。現在はトルコ領に編入されている。1972年に初めてイラン側から見た時には、伝説の山を望み感動した事を覚えています。)聖書の言い伝えが本当なら、もしかしてアルメニア人は人類の第二の祖先ノアの直系の子孫かも知れません。手元の吉川弘文館出版の「世界史地図」(筆者の愛読書、海外駐在員必携と思います。)によれば、紀元前6世紀頃からアルメニアの名前が出現し、紀元前1世紀に大アルメニアと発展した古い歴史を持つ民族です。世界で一番早くキリスト教を国教としたという点でも知られています。余談ですが古いという話では、イランのパーティーでアッシリア人(シリア人ではない)ですと自己紹介を受けた時には、あの高校世界史で習ったアッシリア人(「世界史地図」ではアッシリア王国は紀元前10世紀頃)が、未だ生き残っていたのかと驚いた事が有ります。

 アララット山アルメニア人は格闘技が得意で、欧州ではアルメニア系のレスリング、ボクシング選手が知られている様です。日本でもK-1のドラゴ選手が知られています。芸術の方でも有名で、指揮者のカラヤン、高校音楽で習った「剣の舞」の作曲家ハチャトリアン、シャンソン歌手のシャルル・アズナブール(本名アズナブーリアン)が良く知られています。アルメニア人の名前が特徴的で、ほとんどの人の姓の末尾が”-ian”で終わります。上記3名以外にも、知り合いの名前を上げると、アガヤン、アレキサンドリアン、ペトロシアン、ダブディアン等が有ります。他にも、シンガポールのラッフルズホテルの創設者がアルメニア人、或いはインドのタージマハールの建設者の多くがアルメニア人の石工で有ったという事を、以前旅行ガイドで読んだ事が有ります。

 
アルメニア人が、かくも世界中に散らばった原因に隣国トルコとイランが大きく関わっています。17世紀頃のイランのサファビ朝のシャーアッバス(アッバス大王)が、10万人程の大量の商人や職人の専門家集団のアルメニア人を首都のイスファハンに呼び寄せたとの事です。テヘランで知り合ったアルメニア人のほとんどは、この集団移民の子孫でした。彼らは、イラン人のイスラム教、アルメニア人のキリスト教と宗教は異なるものの、数百年間もお互いの存在を認め合って暮らしている様子で、イラン滞在中両者の人種の違いによる深刻な摩擦を感じたことは有りませんでした。 問題はトルコとの関係ですが、第一次大戦中のオスマントルコの時代に、アルメニア側の言い分で100万人以上のアルメニア人が虐殺され、多くのアルメニア人が国外へ脱出した歴史を持っています。ちょうど日本と中国の南京事件と同じ構図で、事件の背景、犠牲者の数の違いを両国で100年間言い争いしています。
 
この度ようやく国交樹立に向けた前向きな動きが出てきた事に対して、両国サイドに知り合いを持つ身として、素直に喜んでいます。国内手続きに、まだまだ時間が掛かる由ですが、何とか大きなトラブル無しで、国交樹立が出来る様に祈っています。

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トルコ航空救援機来る

Posted by japansmallpotatoes : 10月 17, 2009

Cumhuriyet

トルコと言う国に対して感謝の気持ちを持っております。 ブログを始めた理由の一つは、この感謝の気持ちを、みんなの前で明らかにしたかったからです。NHKのプロジェクトXでエピソードが紹介されたので、ご存知の方も多いかと思いますが、トルコ航空の救援機が多くの日本人を助け出してくれたからです。私も助け出された中の一人です。

1985年3月には妻及び2歳の長男と共にテヘランに駐在しておりました。当時、イランはイラクと交戦中で、毎晩イラクから爆撃機がテヘラン上空まで侵入し、爆弾を落としておりました。 幸いにもテヘランは国境からは、500キロ程あり、往復の航続距離の関係上大量の爆弾を搭載できぬ模様で、1機につき1-2発落とすと引き上げると言う形で、直撃を受けるのは交通事故に会う確率程度と少し余裕を持っておりました。それでも、夜寝るときは、宿舎の食堂のテーブルの下に布団を敷いて、子供を真ん中に寝かせて、気休めにしか過ぎませんが、最低限の安全確保を目指していました。

3月17日の夜、イラクのサダム・フセイン大統領は、48時間の猶予の後、イラン上空に飛来する民間機を撃墜するという、イランに対して無差別攻撃を開始する旨の声明を発表しました。これを受けて、イランに飛来していた全ての民間航空会社は期限内の運行停止を決定し、同時に各航空会社は自国民のイランからの引き上げの為の避難活動を開始しました。ところが、親方日の丸のJALは、乗務員の安全確保が出来ないと言う理由で、助けに来てくれませんでした。当時ドバイまで来てイラク側からの安全確認を得る為に、待機しているとのニュースは流れて来ていましたが、真偽は確認していません。結果として、国外避難を求める外国人の中で日本人のみが、イランに取り残されるという情けない事態が発生しました。

3月18日の朝から、在住日本人は行き先はどこでも良いからと18-19日テヘラン発の便に席が取れぬかと、航空会社のチケットカウンターに押しかけました。私もAFとLHの事務所を訪ねましたが、当然ながら自国民優先と言う方針で、日本人にチケットは売ってくれませんでした。(イランでは3月20日が新年ですので、正月休みを海外で過ごす予定で、相当数の駐在員が事前にヨーロッパ行きのチケットを入手しており、彼らは予定通り出国できました。)陸路テヘランからトルコのエルズルム経由でイスタンブールに至る、いわゆるパンアジアハイウェーと言う避難ルートが存在するのは知っていましたが、実は1980年にそのルートを通じてイランを脱出した事が有りますが、その際にひどい事件に遭遇した経験を持っています。いずれ稿を改めて詳しく書きますが、とても妻子を連れて長距離バスに乗る危険を犯す勇気を持てませんでした。航空空会社から失意のまま宿舎に戻り、仕方が無いので翌日は朝から車を駆ってカスピ海の方面に避難し、テヘランで激しい爆撃を受ける危険を避け様という腹を決めました。ところが夜の8時ごろになって、大使館の領事から電話が有り、トルコ航空が救援機の空席に日本人を乗せてくれる事になったので、翌日はトルコ航空の事務所へ行く様に薦められました。

3月19日の早朝、トルコ航空の事務所に到着すると、既に日本人駐在員の長蛇の列が廊下、階段と繋がっていました。 しかし数時間の待ち時間の間に意外とスムースに発券作業が進み、イスタンブール行きのチケット3枚を無事購入する事ができました。早速宿舎に飛び返り、荷造りを済ませていた家族を連れて直ちに飛行場に向かいました。飛行場は複数の救援機の離陸待ちで、混雑の極みでした。搭乗ラウンジでは、混雑緩和の為、一列縦隊に並ばされましたが、右側がモスクワ行きのアエロフロート便で当時のソビエト人の列、左側がイスタンブール行きの日本人多数の列でした。3月のモスクワは未だ寒さが厳しいのか、ロシア人達は毛皮で着膨れている事も有るかも知れぬが、200-300人が集団で平行して並ぶと、身長差20-30cm体重差40-50kgの体格の違いが歴然と見え圧倒される存在感を意識したものです。態度も日本人の列は黙って行儀良く並んでいるだけですが、ロシア人の列は、みな大声で何かをしゃべりまくりていました。その時何故か、北方四島を取り戻すのは、簡単じゃ無いなと言う考えが頭を過ぎり、思わず「ロシア人め」と言うニュアンスで宿舎の大家が口にしている「シュラビ(ペルシャ語でスラブ人)」と言う言葉が出てしまいました。隣に居たロシア人の妙に明るい奥さんが聞きとがめて、「バーレ(ペルシャ語でそうよ)」と小さな声の笑顔で答えたのを記憶しています。

その数日の疲れで、機内では眠り込んでいましたので、ほとんど出来事を覚えていませんが、テヘラン空港を離陸直後とイラン国境を超えた際に機長の「ようこそトルコへ」という機内放送を受け、搭乗客全員が拍手したのが印象に残っています。その日トルコは2機の救援機で、通告期限ぎりぎりの午後8時直前に、都合215名の日本人を救出してくれました。救援機派遣を決めたトルコの当時のオザル首相、命がけの救援活動を実行してくれた乗員、トルコ国民全員に1000回でも「タシャキュール(トルコ語でありがとう)」を伝えたいと思います。

下の記事は、3月20日発行のトルコの新聞「Cumhuriyet」の切抜きです。19日夜イスタンブール到着時に空港で取材を受け、テヘランの状況を説明した妻の発言が引用されています。

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